長州藩士「吉田松陰」ゆかりの史跡(下田市)
長州藩士にして思想家、教育者、兵学者である「吉田松陰」は、私塾である松下村塾の先生となり、高杉晋作や伊藤博文、山形有朋など幕末維新の指導者となる多くの人材を育てたことでも知られています。
1854年1月、吉田松陰28歳の時、広く世界の情勢を知るために、夜半下田に来航していたペリーの旗艦ポーハタン号に小舟で乗り付け、乗船の交渉を続けましたが断られています。
この密航が失敗し、自ら自首し萩の野山獄に幽閉されます、この時28歳でした。
その後安政の大獄により江戸に送られ伝馬町において斬首されています、享年30歳でした。
下田には吉田松陰が滞在した時の痕跡を残す史跡が幾つかあります。
<柿埼弁天島>
吉田松陰と金子重輔が密航を企てるために漕ぎ出した、柿埼弁天島に隣接する「弁天島公園」に二人の像が建っています。
現在の弁天島は陸続きになり、漁船の係留波止場も設けられており、昔の面影を残しています。
5月の黒船祭りには、吉田松陰の出生地の山口県萩からも、関係者が参加しているとのことです。
<ハリスの小道>
吉田松陰が上陸した福浦海岸にあり、記念碑が建っています。小道の沿道には多くのヨットが係留され、寝姿山が正面に見られ、港町下田の風景としてお勧めのスポットです。
その他、下田で投宿した「旅館・岡方屋」の跡碑や、密航失敗後に自首し拘禁された場所の石碑など、幾つかの史跡もあります。
<蓮台寺 湯の華小道>
吉田松陰が皮膚病を治療したとされる温泉で、開湯より300年の温泉は蓮台寺温泉と知られています。下田の奥座敷としての静かな風情を残しています。
皮膚病の治療で寝泊まりした村山邸(現在は吉田松陰寓奇所)も残されています。
吉田松陰が船を出した弁天島 | |
蜜出航のイメージ図 | |
蜜出航地と失敗し寄港した海岸の説明 | |
失敗し寄港した海岸からの下田湾 | |
吉田松陰像の記念に寄せた文 | |
吉田松陰像 |
2018年5月17日