伊豆の情景

夕日が棚田に映える「石部の棚田」(松崎町)

伊豆の情景 西伊豆

伊豆にはめずらしい棚田の風景を残す、松崎町「石部の棚田」は、一度廃田の淵までいったようですが、地元ボランティアの努力と棚田のオーナー制度で復活したとのことです。

棚田のライトアップの為のろうそくの点灯は、ボランティアを募集して行われますが、点灯する数が多いため日暮れの数時間前から作業が行われます。

 

1年で1番日が長い6月を前にしたこの時期は、棚田の左方向に夕日が沈み、夕焼けの照り返しで水を張った棚田が赤く染まる光景が見られるベストな時期です。

早くからベストポイントにカメラの三脚を並べたて待ち構えているカメラマンの外、観光客も多く見られます。

 

消火は9時ですが、夕焼けに染まる棚田から、日が沈んだ後にゆらめく棚田の灯りの光景もすばらしいですね。

場所:松崎町石部(地図)
駐車場:棚田の下部と上部に駐車場がありますが、運転に自信のない方は上部の駐車場の利用をお勧めします。

 

伊豆松崎町「石部の棚田」夕暮れの棚田風景
点灯場所へ
伊豆松崎町「石部の棚田」ライトアップ前の親子で点灯
親子で点灯
伊豆松崎町「石部の棚田」ライトアップ前のボランティアの点灯
ボランティアの点灯作業が進む
伊豆松崎町「石部の棚田」夕焼けに染まり始める棚田
夕暮れが迫る
伊豆松崎町「石部の棚田」夕焼けが映える棚田のライトアップ
夕焼けを映し赤く染まる棚田
伊豆松崎町「石部の棚田」日没後の幻想的な棚田の灯り
日没後の棚田の灯り

 

長州藩士「吉田松陰」ゆかりの史跡(下田市)

伊豆の情景 南伊豆

長州藩士にして思想家、教育者、兵学者である「吉田松陰」は、私塾である松下村塾の先生となり、高杉晋作や伊藤博文、山形有朋など幕末維新の指導者となる多くの人材を育てたことでも知られています。

1854年1月、吉田松陰28歳の時、広く世界の情勢を知るために、夜半下田に来航していたペリーの旗艦ポーハタン号に小舟で乗り付け、乗船の交渉を続けましたが断られています。

この密航が失敗し、自ら自首し萩の野山獄に幽閉されます、この時28歳でした。

その後安政の大獄により江戸に送られ伝馬町において斬首されています、享年30歳でした。

下田には吉田松陰が滞在した時の痕跡を残す史跡が幾つかあります。

 

 

<柿埼弁天島>

吉田松陰と金子重輔が密航を企てるために漕ぎ出した、柿埼弁天島に隣接する「弁天島公園」に二人の像が建っています。

現在の弁天島は陸続きになり、漁船の係留波止場も設けられており、昔の面影を残しています。

5月の黒船祭りには、吉田松陰の出生地の山口県萩からも、関係者が参加しているとのことです。

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<ハリスの小道>

吉田松陰が上陸した福浦海岸にあり、記念碑が建っています。小道の沿道には多くのヨットが係留され、寝姿山が正面に見られ、港町下田の風景としてお勧めのスポットです。

その他、下田で投宿した「旅館・岡方屋」の跡碑や、密航失敗後に自首し拘禁された場所の石碑など、幾つかの史跡もあります。

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<蓮台寺 湯の華小道>

吉田松陰が皮膚病を治療したとされる温泉で、開湯より300年の温泉は蓮台寺温泉と知られています。下田の奥座敷としての静かな風情を残しています。

皮膚病の治療で寝泊まりした村山邸(現在は吉田松陰寓奇所)も残されています。

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下田市「吉田松陰の史跡」松陰が船を出した弁天島
吉田松陰が船を出した弁天島
下田市「吉田松陰の史跡」松陰が密航したイメージ図
蜜出航のイメージ図
下田市「吉田松陰の史跡」松陰密航の説明碑
蜜出航地と失敗し寄港した海岸の説明
下田市「吉田松陰の史跡」松陰の密航が失敗した下田海岸
失敗し寄港した海岸からの下田湾
下田市「吉田松陰の史跡」吉田松陰経歴の説明碑
吉田松陰像の記念に寄せた文
下田市「吉田松陰の史跡」柿崎にある吉田松陰像
 吉田松陰像

 

「唐人お吉」ゆかりの史跡(下田市)

伊豆の情景 南伊豆

美貌だったとされる「お吉(本名・斎藤きち)」さんは、ハリス来航後に幕府に命じられて17歳でハリスに仕えた芸子さんです。

仕えた期間は短かったようですが、当時人から唐人として偏見の目で見られて「唐人お吉」と呼ばれた女性です。

 

下田生まれの筆者が小さい時から聞かされていた唐人お吉の哀話は、ハリスの居住している玉泉寺に通うお吉に対する人々の蔑視や嘲笑に耐え切れずに、酒におぼれ世間から孤立し、孤独の中で稲生川に身を投げ51歳の短い生涯を閉じたと聞かされていましたが、別の説もあるようです。

(玉泉寺は、伊豆の散歩道・下田「玉泉寺」でご紹介しています)

 

<宝福寺>(地図)

稲田寺から徒歩2分ほどの「宝福寺」は、お吉の菩提寺です。お吉の亡骸を宝福寺の第15代の住職が引き取り、手厚く葬られました。

昭和5年には水谷八重子さんらにより、新しい墓も寄進されたとのことです。

 

この宝福寺には、嵐で下田に寄港していた土佐藩主の山内容堂に、勝海舟が坂本龍馬の土佐脱藩の罪の許しを願うために謁見したとされる、謁見の間が残されています。

入り口には坂本龍馬を描いた看板もあります。黒船祭りでの米水兵の1枚を掲載しました。

隣接して「お吉記念館」が併設されています。

 

下田市「唐人お吉ゆかりの史跡」宝福寺
宝福寺正面
下田市「唐人お吉ゆかりの史跡」宝福寺で憩う米兵
宝福寺で憩う米海軍水兵
下田市「唐人お吉ゆかりの史跡」宝福寺のお吉記念館
併設されているお吉記念館

 

 

<安直楼>(地図)

苦悩の生涯を送ったとされるお吉ですが、明治15年から営んでいた料亭が「安直楼」です。

お吉さんが亡くなった後に寿司屋さんとして使用されていた建物は、当時の下田の建物を代表するなまこ壁の建物で、下田市の歴史建造物(史跡)に指定されています。

 

下田市「唐人お吉ゆかりの史跡」なまこ壁の安直楼
なまこ壁の安直楼の正面

 

その他、ハリスと出会った「玉泉寺」(ブログで紹介)があります。

彼女の生涯は「唐人お吉」という小説で広く知られるようになりましたが、下田の町には多くの「お吉伝説」が残っているようです。

お吉にちなんだお菓子は蓮台寺の「山福屋の牛乳せんべい」などいろいろあります。

アメリカジャスミン咲く「了仙寺」(下田市)

伊豆の情景 南伊豆

幕末のペリー来航の舞台として一躍有名になった下田ですが、この中でも国指定史跡の「了仙寺」は、「日米和親条約付属下田条約」を結んだ場所としても知られており、別名「ジャスミン寺」とも呼ばれています。

日蓮宗の了仙寺の歴史は古く、徳川三代将軍徳川家光の時代に創建されたもので、境内の宝物館はペリー直筆の公文書や黒船来航絵巻など、黒船来航を中心に3000点を超える黒船コレクションが収蔵・展示されています。

 

ジャスミン寺とも呼ばれている「了仙寺」は、5月中旬頃になると境内一面に植栽(約1000株)されている「アメリカジャスミン(においばんまつり)」が咲き乱れ、紫色の花光景と、アメリカジャスミンが放つ不思議な香りに包まれます。

毎年5月中旬に開催される「黒船祭り」の時期に、アメリカジャスミンの開花がピークを迎えますので、この時期は観光客で混みあいます。

※写真をクリックすると拡大した写真がご覧になれます。

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下田市「了仙寺」山門から本堂を望む
了仙寺山門から本堂を望む
下田市「了仙寺」アメリカジャスミンに埋まる了仙寺
アメリカジャスミンに埋まる了仙寺
下田市「了仙寺」アメリカジャスミンの中の演奏会
本堂前でのアメリカ軍楽隊の演奏
下田市「了仙寺」アメリカジャスミンの小道
了仙寺脇のアメリカジャスミンの小道
下田市「了仙寺」ペリーロードへの小道
ペリーロードへの小道
下田市「了仙寺」アメリカジャスミンに埋まる本堂
了仙寺本堂

 

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